【本の話】『老人と海』
今年の夏は例年に増して暑い。外を少し歩くだけで汗だくだ。
部屋の中にいても冷房の効きも悪い。なお悪いことにコロナ禍に見舞われて外出や旅行にも行けない。さて、どう乗り切るか。
頼るのは脳内旅行、読書だ。涼しい気持ちになれる本を本棚から探す。
できれば程よく薄くて、このうだる暑さでも読める内容のわかりやすいものがいい。
あぁ、これだ。
『老人と海』
老漁師が一人、不漁の日々。
流れを変えるべく一人で遠洋まで漁に出る。と、針にかかる大魚。そしてその大魚との死闘。
力の限りを尽くして逃げようとする巨大なカジキマグロとの数日間に及ぶ闘いが細かに描かれている。なんとか闘いを制した老人が帰途に着こうとすると今度はその獲物を食おうとするサメの群れ、二回目の死闘。
肉体的にも精神的にもボロボロになりながら帰港するも、村に着く頃には獲物は骨だけになっている。
しかし、憑き物が落ちたような清々しさを持って老人は慎ましい我が家へ帰っていく。
不漁の日々ももう終わるだろう。
あらすじはざっとこんな形だったと思う。
再読とするとなると、求めるのはストーリー展開ではなくなってくる。忘れていたエピソードや文章表現、ヘミングウェイの価値観などをもう一度読み解くこと、自分の人生に照らし合わせて考えてみること、などになってくると思う。
うろ覚えだが、老人が遠洋へ出向く前に、かわいがっている漁村の少年との対話するこんなシーンがあったと思う。海亀漁というのは遠くまで目を凝らし、きらきら光る水面をずっと見ていないといけない。太陽の光が視力に悪影響を及ぼし、長く続けていると目をやられてしまうらしい。
そこで少年が聞く。
でもおじいさんも長くやっていたでしょう、なぜおじいさんの目は大丈夫なの、と。
ふっと笑って、老人が答える。
「おれは一風変わった年寄りなのさ」
この辺のやりとりがとても清々しい。
短い文章で雑味のないスマートさとでもいえばいいのか、ヘミングウェイ調が冴えわたっている。
嫌味も誇張もないシンプルな書き具合におしゃれ感さえ感じる。
これは、清涼感だ。
そう、夏に読むのに実にぴったりなのだ。もう潮のにおいすらしてくるではないか。
あらためて考えてみると主人公こそ老人だが、人生の縮図を描いた教訓の話であると同時に、これは青春モノでもあると思う。
老人は自らの命の限界を感じながらも、希望を失わない。
戦っている最中の今、ここ、の一瞬一瞬に集中する姿勢。
不漁の日々のイライラや野球選手ディマジオの不振に自らを重ねる純粋さ、かかった獲物が大洋の果てまで老人を引きずりこもうとするに任せる無鉄砲さ、人生を長く見てきたからこその諦観。
人生最後の、火花が散るような輝かしさが満ちている。
そして、老人は最後の瞬間まで求道者でもある。
生きてきた人生への問いを自らに投げかけ、その問いに自ら答えを見出していく。
前半のカジキマグロとの死闘、後半のサメの群れとの死闘。
がむしゃらに執着心を持って追い求めてきた人生と、得たものを手放すことを余儀なくされる過程。
一つ一つに折り合いをつけながら自らの人生の内省が繰り広げられていく。
妻、自分に残された先の短い命、自らが得たものが食い尽くされていくプロセス・・・。
帰港後、無残にも骨のみとなった獲物を、自分に懐いている村の少年にあげるようとする。
自らが生きた証を、その骨格でもいい、引き継ごとする気持ちの表れだ。
1935年にピューリッツァー賞を受賞し、翌年にはノーベル文学賞受賞につながった本作。
今日に至るまで人生という海にどう向き合うべきなのかを我々に問い続けてくれる。
と、ここまで再読せずに書いてみた。
100人読んだら100通りの想いがある。
あらためて名作には力があるなぁ、と思う。
ストーリーが素晴らしいとか著名な文学賞をとったから、ということではなくて。
この暑さの中でも、読む人の人生への思い、哲学、価値観を揺さぶってくる。